SPECIAL 2004
2004年1月 第1号 掲載
------------------------------------------------------------------------

バンクーバー新報
読者に支えられて二十五年


津田佐江子バンクーバー新報社社主

  一九七八年、日本では大平内閣が成立、ピンクレディーの「UFO」がレコード大賞を取った年の暮れ、バンクーバーのパウエルストリートは日本人経営の食料品店やレストラン、書店などが軒を並べ、七〇年前後をピークに日本から多く移住した若者らでにぎわっていた。
 そんな師走の商店街に、バンクーバー新報(当時は「晩香波新報」)の第一号が積まれる。ガリ版刷り一枚の裏表に、窮屈そうに並ぶ手書き文字。インターネットも日本語テレビもなかった時代、日本のニュースを知る手立ての限られていたバンクーバーに、ささやかながら戦後初めての「日本語新聞」が誕生した。
 晩香波新報は、「日本で何が起きているのか知りたいという単純な動機で」現在の社主津田佐江子を含む男女四人が津田の自宅のベースメントに集まり始まった。日本の貨物船には航海中、船員のために日本のニュースがファックスで送られる。船舶通信と呼ばれるそのファックスをもらいに港に通い、めぼしいニュースを選んで、鉄筆でガリ版用紙に書き写し、五百部印刷した。
 「インク代や紙代は自腹。まさかビジネスなんて思いもしない、趣味のようなものでした。若かったし、楽しかったですよ」と、津田は振り返る。
 以来二十五年、バンクーバー新報は、戦前からの日系移民の歴史に支えられ、戦後の移住者とそのコミュニティーの発展と共に成長してきた。 そして同年からジャパニーズ・ソフトボール・リーグの協力を得て、ソフトボール大会「バンクーバー新報グリーンカップ・ソフトボール大会」が始まった。
戦後移住の始まり
 戦中の強制移動と戦後四年間続いた西海岸への帰還禁止令で、戦前にあったバンクーバーの日系コミュニティーは壊滅。日本語新聞もなくなったままだった。一九六七年に改正移民法が施行、家族の呼び寄せに限られていた日本からの移民が解禁され、その後十年間で約八千六百人の日本人が移住する(政府統計資料)。移民解禁の翌一九六八年には、日本航空が東京―バンクーバー間の運航を始めた。日本の海外旅行ブームはまだ先になるが、一九六七年のモントリオール国際万博に続き開かれた一九七〇年大阪万博には、カナダからBC館を含む四つのパビリオンが出展し、カナダ観光への関心も少しずつながら育ち始める。
多文化政策の恩恵
 戦争中の差別で苦労し、戦後は子供に日本語を教えない傾向の強かった戦前の日系一世とは対照的に、戦後の移住者は、日本人であることを堂々と言えるカナダ社会に迎えられる。一九七一年、ピエール・トゥルドー政府が多文化政策を発表、カナダは英仏二文化の国から、多文化の国に転換したのだ。一九七三年に移住した津田は、異文化に寛容になったカナダ社会に迎えられ、日本語で新聞を発行することにも「何も屈託がなかったです」と、当時を語る。
 多文化主義は、戦中の差別を経験した日系移民にあった自己否定的な気運をも転換させる。一九七七年、日系移住百周年を記念し、戦争で失われた日系人のアイデンティティ再生を唱える多くのイベントがカナダ各地で催された。バンクーバーで企画された「パウエル祭」は、戦前の移住者、日系二世、そして戦後移住者との交流のきっかけを生み、その後も毎年恒例の行事として、年々拡大を続けている。
 戦時中の日系人強制移動に対する補償をカナダ政府に求める運動が始まったのもこの年だ。
移住者団体の創立
 戦後の移住者の数が八千を超え、定着が進む中で、隣組や移住者の会など現在に続く主要な日系団体が形成されていく。一九七四年創立の隣組は、ダウンタウンイーストサイドの簡易宿泊施設に住む日系一世の援助から活動を始めた。その後、移住者の福祉、トラブルにあった被害者のサポート、近年は留学生やワーキングホリデーの若者にも援助の手を広げ、日系社会で大きな役割を果たしている。隣組の発起人の一人で現事務局長の山城猛夫氏は、日系社会への貢献が認められ、二〇〇三年七月に日本外務大臣賞を受賞した。
 一九七七年には、移住者の会が創立される。初代会長の鹿毛達夫氏は、日系人の補償運動に戦後の移住者ながら関わり、歴史家としての著作活動でも知られる。この頃、女性向けに日本語で生活情報を提供するランゲージエイドと呼ばれるグループの活動も始まっていた。一九八〇年代初頭は豊かな老後をカナダで過ごそうという退職移住者の到着が目立ち、シルバー移住者の親睦団体として桜楓会もこの頃作られた。当時の移民法にあった退職移住のカテゴリーを利用してのものだが、この枠は一九九〇年代に廃止される。
ワーキングホリデー制度
異文化のもたらす問題

 こうしてカナダの多文化主義、若い移住者のコミュニティー形成という動きの中で、一九七八年、バンクーバー新報がスタートする。その後、和文タイプライター、続いてワープロ導入、会社組織化、共同通信配信契約など、徐々に新聞としての形を整えていくものの、経営は苦しかった。
 しかし、転機は一九八六年に訪れる。その年、バンクーバーで国際万博が開かれ、訪加した当時の中曽根首相の置き土産としてワーキングホリデー制度が創設された。
 年間三千(当時)の若者が最長一年間、カナダに暮らすというワーキングホリデー制度ができて、「日系社会はがぜん活発になりました」と津田はその影響を語る。
 「初めの頃こそ、移住者の職を奪うという懸念の投書がよく寄せられました。それに対して、日本の若い人に国際化を経験をしてもらうため、心を大きくして迎えましょうという声が多くあがったのを覚えています」
 一九八〇年代後半からのバブル景気で、カナダを訪れる日本人観光客も急増し、一九九二年には、BC州観光局の日本オフィスが東京に開設される。バンクーバーでも、JTB(一九八三年)、日本旅行(一九八九年)がオフィスを開設したほか、移住者経営の旅行代理店、おみやげ専門店など観光関連業が拡大する。ワーキングホリデー制度、観光客増による日本人人口の増加は、地元日系ビジネスの活性化を生み、バンクーバー新報も広告の売り上げの伸びという恩恵を受ける。
 「ようやくこれでビジネスとしてやっていけるという感覚がでました」と津田は語る。
 一九八〇年代の後半から、移住者の会のプログラムも充実していく。公益団体ピープルズ・ロースクールと提携して法律講習会を定期開催し、日常のトラブル解決に必要な法律知識を日本語通訳付きで解説した。バンクーバー新報も毎回記者を送り、移住者の会が掲載記事を利用して小冊子にまとめるという協力関係も二〇〇二年に講習会が取り止めになるまで続いた。
 異文化の生活は法律面に限らず、精神面でのトラブルも引き起こす。日本語でのカウンセリングサービスが一九八〇年代後半、バンクーバーに滞在していた日本人精神科医らの熱意で始まり、前述の山城、鹿毛両氏を中心とする隣組、移住者の会の支援で今日に至る。当時から今日に至るまでボランティアでカウンセリングにあたる精神科医の野田文隆氏は根付いた大きな理由としてコミュニティーの支援、「日本語テレビ・新聞でこの相談を宣伝しクライアントの掘り起こしを図ってくれたから」と著書「汗をかきかきレジデント」の中で述べているが、コミュニティー新聞の存在が役立った例だ。
 日本の好景気が続いた一九八〇年代、日本からの移住者は年間二百人弱にまで落ち込むが、一九九〇年代に入って急増を見せ、一九九四年には千人に達する。興味深いのは、女性が男性の二倍を占め、その女性の大半が二十五歳から三十四歳という特徴だ。
 その背景にあるのが、国際結婚による女性の移住で、ワーキングホリデー制度に加え、日本政府の英語教師アシスタント制度JETプログラムで日本に長期滞在するカナダの若者の増加などがその背景にあるとみられる。
 そうした中で一九九七年、言葉の壁、習慣の違いなど国際結婚で経験する問題に悩む女性を支援するために、「国際結婚ワークショップ」が移住者の会とJCCAの共催で開始される。ここでの議論をバンクーバー新報も毎回掲載、開催者の一人である鹿毛氏は、「会に出られなかった読者のための情報源になったほかに、記事を読んだ人がおもしろそうだからと、次回の会合に出てくるなどの効果があった」と話す。
 また一九九八年には在外選挙制度が施行され、外務省から総領事館を通じての広告掲載、海外日系新聞協会を通じての政党広告掲載など、バンクーバー新報の海外日系新聞としての役割も重くなった。在外選挙制度は「日系人の日本における立場を非常に高くするもの」と津田は受け止める。
 二〇〇〇年、日系補償基金から交付された三百万ドルと広く展開された百万ドル募金活動の努力が実り、日系コミュニティーの拠点として「日系プレース」がバーナビー市にオープンした。その文化センターでのイベントスケジュールは毎週、バンクーバー新報に掲載され、利用者に役立っている。 
 日本におけるバンクーバーへの関心の高さを反映して、バンクーバー新報オフィスへの日本からの問い合わせも増える。そうした需要に対応して、一九九七年十月に、バンクーバー新報の記事や広告の一部を読めるウェブサイトを開設。海外の日系新聞としては初めての試みで、朝日新聞など日本でも報道された。カナダにおいては二〇〇二年、エスニック新聞評議会賞ベストエディトリアル賞を受賞した。
戦後移住者社会の成熟と新たな挑戦
 若者からシニアまで年齢幅の広い移住者、働き盛りの駐在員、学生やワーキングホリデーの若者と、バンクーバーの日本人人口は二十五年前に比べ、厚みを増した。それを反映して、日本語情報紙の数も急増し、読者や広告掲載の企業にとって選択の幅が広がった。バンクーバー新報も、「VAN Weekly」の無料配布を二〇〇二年に始めるなどして市場への対応を図り、幅広い読者層それぞれのニーズに応えるべく、紙面の刷新に努めている。
 二〇〇三年は日系コミュニティーにとって、意義深い一年だった。一つは七月に行われた「NHKのど自慢インバンクーバー」の開催。日系コミュニティーが真に一体となって盛り上がった。
 もう一つには、日本カナダ商工会議所の創立がある。創立メンバーには、バンクーバー新報と同様に二〇〇三年に二十五周年を迎えた日本食料品店の「ふじや」、スモークサーモン製造で二〇〇三年BC輸出賞マーケティング部門のファイナリストになった「チーナ」など、中堅企業が並び、移住者経営のビジネスが成熟期を迎えたことを物語る。政府に登録された商工会議所の設立で、日系ビジネスは日系社会の枠を出て、広くカナダ社会で積極的な役割を果たしていく道が広がったことになる。
 「今まで二十五年間、多くの皆様に支えられて続けてこられましたことを感謝しています。バンクーバー新報が広く多様な人々で構成されているコミュニティーの期待にどれだけ応えられるかが今後の課題ではありますが、努力を続けたいと思います。ご支援をお願い致します」と津田は読者の皆様と広告主の方々に感謝の意を込めた。  (取材 小原敦子)