SPECIAL 2003
2003年5月 第21号 掲載
プロフィール 四川省成都市で生まれる。文化革命後の1978年当時、全国大学合格率1%のところをパスして四川大学に入学。日本語を専攻し、卒業後は日本語の翻訳、通 訳、日本語教師として活躍。1991年渡日、東京都立大学で経済学を学び、中国語を教えつつ、日本生命で働く。99年家族でカナダに移住。現在ロイヤル・バンクの保険セールスの仕事をしながら、週末は太極拳の指導も行っている。 |
1966年、中国では10年に及ぶ毛沢東支配による強力な文化統制が開始された年。当時小学5年生だった劉さん。この時代を描き、世界的ベストセラーとなった小説「ワイルド・スワン」の著者張戒(ユン・チアン)は同じく四川省の出身であり、劉さんと同じ年代で互いの両親は面 識があった。時代に屈することなく向学心を持ち続け、その後の日本、カナダという異国での生活に果 敢に挑んできた劉さんがその貴重な体験を本紙に語ってくれた。
文化大革命開始後の暮らしはどのようなものだったのですか?
文化革命開始当時、革命後まもなく共産党幹部だった父は「走資派(資本主義に走っている人)」と批判の対象にされ、中国で「牛棚」と呼ばれる拘置所に入れられました。母も五七幹部学校という労働場へ送られ、家にはわたしと7歳と2歳の妹に1歳の弟と70歳の祖母が残されてしまいました。
それはさぞ大変だったのでは。
小さい兄弟たちを預かってくれるところはあったのですが、それでも毎日母の代わりに家のことを切り盛りするのは大変でした。すべて配給でなかなか物が手に入らない時代でしたし。レンガ作りなどの労働も家庭に課せられていました。黄色い土を運んで固めるのですが、わたしが戸籍上の家族分である7人分の作業を行っていました。
学校生活はどうでした?
革命開始から学校へは行けなくなりました。小学生は中高生の「紅衛兵」に倣って「紅小兵」という赤い腕章をつけて「革命する」ことが当たり前になっていました。毛沢東支配下では「学工 学農 学軍(労働者、農民、軍人に学べ)」と唄われ、知識人は批判の的でした。ですから、壁新聞を作り、あれはいけない、これはいけないと「毛主席を守るため」に運動していました。そして当時は全くそれが間違っているなどとは思わず、当然のこととして行っていました。今から思うと「狂った時代」でした。
そのまま学校へは行けないままだったのですか?
69年に中学に戻れるようになりました。本当なら卒業している年だったんですけどね。そこでの2年の勉強は、実質的には毛沢東の語録や著作の学習だけで、英語もABC以外には「毛主席バンザイ」を英訳したことばだけでした。
71年に中学校は終わり、都市部の人(知識青年)は農村へ行けと言われました。当時、「農民は手足は汚いが心は紅い(きれい)、知識人は手足はきれいだが心は汚い」と言われていたのです。16、17歳の同級生たちと汽車で1日、トラックに6日間乗り続け、ミャンマーとの国境にある雲南省のあるゴム農場へ連れて行かれました。
農場での生活はどうだったのですか?
自分たちで竹を切り出して、家からベッドまですべて作り、土の上をはだしで歩いてゴム園の苗を育てるため2つのバケツを肩にかけて水を運んだり、丸太を運んだりの生活でした。食べ物は米しかないところで、毎日の食事はごはんと通
称「ガラス・スープ」。それは熱いお湯に塩が入っているだけのもの。 元旦や春節などの祝日だけは自分たちが育てた豚を1頭ずつ殺して、1年に何回もないご馳走にしました。母からは1度、油で炒めた塩が送られてきて、それをご飯にかけて食べるといつもよりはおいしく食べられたことを覚えています。
毎日ひたすら農作業を続ける生活だったのですか? ラジオも電気もない生活のない生活のなかで、泣き続けたり、盗みを働くような人もいました。でも幸いわたしは、向学心の旺盛な人たちと共にいることができ、ひまさえあれば、毛沢東の著作を読んだり、古い教科書で数学や社会の勉強をしたりしました。わたしは一番の年少者で、先輩についていっただけですが、向学心があったからこそいい友達を選べ、今から思えばよかったと思います。もし向学心がなかったら人生は違っていました。
農場からはいつ戻られたのですか?
わたしの家族が「特殊困難な家」と認められたおかげで一般の人より短い4年間の労働奉仕で帰ることができました。その後は工場で働かされました。でも、仲間より早く家に戻れた自分は、戦場から逃げた戦士のような罪悪感と空虚な気持ちがあったため、何かをしなければという思いに駆られて、通
えなかった中学の勉強とともに日本語の学習を始めることにしました。家に日本語で書かれた囲碁の本があったからなんです。
お父さんは囲碁に深く関わられた人だったそうですね。
中国囲碁協会の副主席で、囲碁文化の研究者でもあった父は囲碁の文化と歴史を学ぶため、日本の関連図書を読みあさり、中国の囲碁百科全書と言われる「中国囲碁」をまとめました。また幾度も囲碁の世界で日本と交流を行ない、父は直木賞作家で日本囲碁代表団長の江崎誠致氏とも数度囲碁の対戦をし、親交を深めていたんです。
その囲碁の本から日本語を勉強しようと。
ええ、自分も小学生時代囲碁の稽古を受けましたので、日本語の本を読めたらという思いから、母の友人で日本語の話せる人から日本語を学びました。まだ文革の最中でしたので、勉強はこっそりと行っていました。唯一、毛主席の著作である「老三篇」が朗読された日本語レコードがありましたので、主にそのレコードで勉強しました。
その後、毛主席が他界し、文化革命が終わったわけですね。
そして、やっと大学入試が再開し、10年間にたまっていた学生が1977年と78年に受験ができました。わたしのような中高の勉強はほとんどしなかった受験生もいれば、きちんと高校を卒業した生徒もいました。わたしは24歳で78年の大学入試を受けましたが、まさか合格するとは思いませんでした。このときほど自分でコントロールできない喜びはなかったですね。全科目が平均を上回る成績とわかったときには手が震えて合計点の計算ができず、自転車にまたがり家に向かうときも「興奮でバスの下にもぐりこむことがないように」と自分に言い聞かせながらペダルをこぎました。この大学入学で人生は劇的に変わりましたね。
そして四川大学の外国語学部日本語学科に入学したのですね。
その後のお仕事はどうされましたか?
卒業後は国の決定で、成都計器工場の情報室で日本語の技術資料の翻訳や通訳などをしていました。また、大学時代から「西丁」のペンネームで日本の囲碁の本を28冊中国語に翻訳出版していました。その本の中には全国的な受賞したものもあります。折しも中国では囲碁ブームでしたので、本は多くの人に読まれました。また日本語教師の仕事もしていました。
日本に渡るきっかけになったのはどんなだったのですか?
日本語の生徒の中から日本に留学する人が現れ、自分も留学したい気持ちになりました。
大学時代からあるきっかけで東京の青梅市の代議士である高野幸助先生に出会い、その方の助けのおかげで、日本の東京都立大学の経済学部に研究生として学び始めることができました。
主人も2年後には日本の企業に入社し、一緒に暮らせることになりました。日本の習慣などはすべて高野先生ご夫妻にご指導いただきました。ご夫妻には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
日本での8年半は青梅市、茅ヶ崎市で中国語の教師を務め、日本生命でも働きました。その間、独学で英語を勉強し始めました。なにしろ大学に入るまでは「毛主席バンザイ」しか英語で言えなかったんですから(笑)。20歳を過ぎて自分が外国語を学んだ経験から、語学の学習では基礎ができるまでには時間がかかるけれど、ある程度のところまで到達すると後はぐんと伸びる、何回もくりかえせば必ずできるとわかっていたので、中国語の指導の際にも、できない人の状態が理解できるんですね。そういう意味からも語学教師は自分の適職であると思いました。
今までの経験を振り返ってどう思われますか?
99年にカナダに移住しましたが、異国での新たな生活というのはものすごく大変なものです。それでもわたしは若い頃から苦労は付き物でしたので、まだ乗り越えたとは言えないですが、がんばってこられたんだと思っています。
外国人に対して不自由なことが多く、女性が社会で活躍する機会もまだまだ十分とはいえない日本社会に、娘の将来を案じてカナダ移住を決めた劉さんご家族。
劉さんは農場時代、風邪で熱が40度も上がった日でもレーニンの「国家と革命」を読んでいたという(「今思えばおかしなことですが」、とは劉さんの弁)。大変な労働生活のなかでもあふれる知識欲を満たそうとした若き劉さん。人目を忍んでの独学は、成都市の大学受験者中日本語の成績筆記試験2番、面
接では1番という好成績にまでつながった。一人娘の王紫(おう・ゆかり)さんも劉さんに負けず劣らぬ
努力家で、小学6年からの1年間で英検3級を取得、カナダの高校でも飛び級を果たした優秀な学生。向上心が支えている人生は、娘へとしっかり引き継がれているのである。
(取材 平野香利)