SPECIAL 2003

2003年4月 第17号 掲載


企友会特別講演会
逆境の中でベイショア高級住宅開発を完遂した、
岡本裕明氏による講演
高級アーバンリゾートへの挑戦

 

岡本裕明氏  
青山学院大学経済学部卒業後、1984年、青木建設に入社。開発本部、秘書室を経て92年1月にバンクーバーに赴任。  現在、ベイショア・ガーデン・ディベロップメント社社長。41歳。同社の行う住宅開発事業を通 じ、ジョージアワードやウォーターフロントアワードなど多数の賞も受賞している。

  日本のバブル崩壊の渦中、不動産開発に逆風が吹きすさぶなかで、スタンレーパークの隣のコールハーバーに面 したベイショア地区における高級コンドミニアムおよび周辺地域を、ベイショア・ガーデン・ディベロップメント社が1995年より本格的に事業を推進、昨年4月には全7期中、第5期までを全戸完売した。
 本事業は、昨年11月にはワシントンDCで行われた第16回ウォーターフロントアワードの遊歩道、公園、リクリェーション部門で優秀賞も受賞している。幾多の困難を乗り越えて事業をリードしてきた同社社長の岡本裕明氏が、緻密な計画と情熱と努力による道のりを熱く語り、集まった約100名の聴衆をうならせた。その充実した講演内容をダイジェストでお届けしたい。
 「本日は本事業における、日本の親会社や日本の銀行との絡みといった日本独特の商習慣の中でどうもがき、切り抜けてきたかを中心にお話します」の前置きのあと、講演は始まった。

★事業の立ち上げ
 1991 年秋、岡本氏は当時、ベイショア・ガーデン・ディベロップメント社の親会社だった青木建設の会長と社長の秘書をしていた。その社長からバンクーバーで、創業以来最大の住宅プロジェクトの立ち上げ準備のためバンクーバーへの赴任を命ぜられた。
 赴任前に提示されたベイショア開発の事業計画は、計画戸数 980 戸のコンドミニアムを一戸あたり 1 ミリオンドルで販売する総売上 1 ビリオンドルという規模の社運をかけたプロジェクトだった。しかし、岡本氏に渡された事業計画は市場分析も販売戦略もない A4紙数枚という貧弱なものだった。加えて本社からは利益率アップの要求などの追い討ちと重圧が、まだ当時20代だった岡本氏にのしかかった。
 着任約2年後、バンクーバー市より土地用途変更許可を取得、事業化の本格検討の時期となった。
 まずプロジェクトチームを新たに組み直し、そして、事業収支の適正化に取り組んだ。市場をつぶさに調査、経済の変化、住宅の需給等から、さらには土地の特性、人種、志向等の分析を繰り返し、約3ヶ月で150 ページにも及ぶ新事業計画書を完成させた。この計画で結論づけた総売上は当初計画の1ビリオンドルからかけ離れた360 ミリオンドルだった。
 この事業計画を東京の親会社に説明するのは大変なことだった。折しもバブル崩壊後の94 年だった。親会社も銀行管理色を強め、プロジェクトへの資金的支援は不可能な状況だった。
 「事業推進そのものの見直しを」という声に押されながら、プロジェクトチームは本社に掛け合い、事業化の再検討をと日夜交渉した。この宝石のようにすばらしい土地を手放すのはあまりにももったいない、その気持ちはチームメンバー共通 の思いだった。
★幾多もの壁
 そこでプロジェクトチームは「本社に事業のノウハウも事業支援も資金援助も求めず、事業は独力で進める」 という前代未聞の挑戦を打ち立てた。
 しかし、それは幾多もの壁に閉ざされた厳しい道のりだった。さらに、この事業には大きな時間的制約があった。バンクーバー市から出されたこの開発事業の許可条件の一つが、ベイショア敷地に接する海岸遊歩道を、建設費を全部ベイショアで負担の上、6年以内に完成させよ、さもなければ担保として取得したベイショアの土地を接収するというものだった。
 当時、カナダの金融機関が不動産開発融資を手控えるなか、海岸遊歩道という直接的見返りのない事業への資金調達の道は皆無の状況だった。その間、東京からは資金調達方法が示せない限り、開発は不可、土地は第三者に売却を、との打診がきた。
 銀行に融資を仰ぐと、土地担保だけでの融資はほぼ無理という返答。資金調達の方法はもうないのかと思われた。その時、カナダ政府が所有するCMHC (Canada Mortgage Housing Corporation:カナダ住宅ローン保証会社)のプロジェクト保証にたどりついた。プロジェクトに対し、CMHCがプロジェクト保証書を付保する。銀行はこの保証書をベースにディベロッパーに資金を貸し付ける。この保証状はまさしく水戸黄門の印籠の様だった。
 CMHC への保証書の申請の作業に入った。現地の資産だけで資金調達ができるか、先ほどの義務工事の資金を調達できるかが岡本氏達の最大の課題だった。CMHCとの交渉の結果 、予算を超過した分だけは親会社が保証をするならばよいという形で承認が取れた。そして、義務工事費の件も全体収支の健全さを示したおかげで承認を受けた。しかし、親会社に対して、自分達の工事費見積は正しく、予算は超過しないと証明することは難しく、予算超過した部分の保証に承認を得るのは困難だった。
 工事費の妥当性を証明するため、東京から出張者を呼び込み、 現地の情報をもとにそのリスクがないことを説明、説得したが、その出張者の報告をもとにした提議は役員会では内容不十分につき保留となってしまった。
 そんな折り、当時、青木建設のメインバンクのひとつであるX銀行の副社長が海外案件処分の一環で当地 に出張があり、その副社長に対し岡本氏らは事業説明と共にバンクーバーの美しさを紹介し、優れた住宅開発の様子を見せ、彼らの目指す事業の企業としての価値観の正しさを説いた。その熱意が伝わり同副社長からの支援が得られることになった。その数週間後の 94 年12 月 23 日、東京でプロジェクトチームはその副社長と共に青木の役員の説得にあたり、2日後の12 月 25 日には役員会での事業承認を獲得した。
★成功か失敗の2つにひとつ
 バンクーバーに戻り、販売準備に入ったとき、もう一つのメインバンクであるY銀行より「開発から撤退するなら今が最後のチャンスですよ」という電話があった。94 年末に親会社の事業承認と X 銀行出身の副社長の支援も得てはいたものの、Y 銀行は必ずしも賛同をしていなかった。
 このとき、岡本氏は昔の上司の言葉を思い出した。「君が 将来、不動産開発をするなら君は二つのシーンを思い浮かべて仕事に取り掛からなくてはいけない。ひとつは、成功して、自分の開発した物件で犬を散歩させている住民に『いい天気ですね』と微笑んで、朝日に向かい胸を張って歩く自分だ。もうひとつは事業が失敗して、ぺんぺん草が生えた荒れ地に風が吹き、沈みかかる夕日が自分の背中を照らしている姿。不動産開発には成功と失敗の2つしかない。そして金額が大きいからサラリーマン人生のすべてをかけることにもなる。常にそのことを頭に入れて仕事をするんだ」。岡本氏はY銀行からの電話の最後に言った。「失敗したらおっしゃる通 りにいたします。しかし、私はこの仕事に私の全てを賭け、全精力を傾け、完成させて見せます」と最後は銀行の方を気迫で圧倒した。
 ところで CMHC の保証条件には建築着工前販売で全体の 50% の販売契約をしたら資金調達保証をするという条項があった。プロジェクトチームは不動産分析を基にその着工前販売の方法を検討し始めた。
★戦争のような日々
 第 1 期の 2 棟の販売は議論の末、ノウハウが蓄積されるよう自社内でマーケティングを推進し、ローカルを主体に販売していくと決定。建設着工前販売の時期をベストシーズンにあてるため、販売用のブローシャーから新聞などへの広告など販売マテリアルと物件概要書を実に8ヶ月内に準備する必要があった。
 それから始まった戦争のような日々は説明し切れない。デザ イン事務所との連日の議論。ブローシャーはデザインのすばらしさよりも一消費者の立場から見て、最大のインパクトを与えられるものを追求し続けた。
 売り出し後、瞬く間 に 20〜30 件が売れていったが、数週間後にはピッチが鈍化。工事着工の条件となるCMHC規定の最低販売件数 78 戸の契約がどうしても必要だった。そこで新たに香港での販売を、となんとか取り付けたわずかな予算のなかで、たったの3日間で現地の言語のブローシャーを作らせ、広報作戦を進め、2日間の説明会で22件もの販売の成約を得て、難関を突破した。
 その後、事業は順調に進んでいたものの、2001年12月6日には、ベイショア第5期のプリセールスを翌々日に控え、親会社が倒産するというニュースが舞い込ん だ。販売の継続か、一時保留にするかの判断が迫られたが、即座に予定どおり売出し開始を決定した。販売開始と同時に一部購入見合せの反応もあったが、目の肥えた顧客からベイショアに対する評価が受けられ、好調な売れ行きのもと、4ヵ月後の4月には完売を成し遂げた。

 講演の後半、岡本氏は今回のもうひとつのテーマである「日系企業が羽ばたくにはどうしたらよいか」について
@ベンチャーたる精神を貫き通す
A骨をうずめる覚悟でその国で仕事をする
B偉大なる実務担当者になる
C事業に精通する
D自分のプロジェクトを愛する、

の5点を力説した。
 そして、現在進行形のこのプロジェクトが完成するまで「全力を尽くしたい」と抱負を述べ、最後に「バンクーバーでの事業は決してやさしくないですが、日本以外でビジネスを するチャンスを与えられた私たちは幸せと考えるべきです。皆さんの努力が10年、 20年後の日本からのビジネスの足がかりになるかもしれません。皆さん、力を合わせてがんばりましょう」と講演を結んだ。 (取材 平野香利)