2003年3月 第13号 掲載


「いつでもフェアプレー、グッドスポーツマンプレーで」
−日系カナダ人の誇り「朝日」ベースボールチーム−


上段、左から ユキ・ウノ、エディ・ナカムラ、コーエイ・ミツイ、カズ・スガ 下段 左から マイク・マルノ、ケン・クツカケ、ジョージ・シシド、ロイ・ヤマムラ、トム・サワヤマ、フランク・シライシ

       1900年代前半を疾風のごとく駆け抜けた野球チームがあった。その名は「朝日」。リーグチャンピオンシップを総なめにし、バンクーバーを一世風靡した日系人ベースボールチーム。5000の大観衆の声援を背中に受け、真っ青に澄みきったバンクーバーの空の下、真夏の陽射しをいっぱいに浴びて、ひたすら白球を追いかけ、野球に熱中する青年達の姿がそこにあった。
ケン・クツカケ氏の話:「私たちはバント攻めでしたね、打撃の方は。体が白人選手達よりも少し小さかったから。ランナーが1、2塁にいてもバントで2点ぐらいとったね。私たちの野球はスピード。そのプレーに白人もとても私たちを尊敬していた。面 白いのは、ランナーが3塁にいる時、コーチがバッターに向かって、『次の球でなくて、次の次で落とせ(バントしろ)』と日本語で言うんですよ。相手には分かりませんからね」
ケイ・カミニシ氏の話:「朝日は体が小さいし、ホームランチームじゃなかったので、スクイズしたり、盗塁したりと犠牲的にランナーを進めてよく(ホームに)迎えたんですよ。それが有名なんですよね。でも、カズ・スガさんはよくホームランを打ちましたね。スガさんは左バッターで、パウエルグランドといわれていた頃、球場の裏に葬式屋があって、その屋根の上にまで打っていましたよ。とってもバッティングが上手な人でした」
キヨシ・スガ氏の話:「朝日の一番有名なプレーはバントですよね。(ランナー1、2塁で)2塁からホームまで一つのバンドで、2点入れるんですよね。白人のチームは(僕たちが)シグナルを出しても気づかないですよね。いつやってもいつも成功しましたよ。面 白かったですよ。一つのスクイズで2人ホームインするんですからね。バンドがとても上手でしたね」
 朝日チームのスクイズのうまさ、盗塁の成功率は毎日、新聞の紙面を賑わした。1920年代後半から、白人(カナディアン)チームのリーグで唯一の日系人チームとして大きな選手を相手に、知恵と機動力と持ち前のガッツで球場中を駆け回り、相手チームを翻弄し、塁に出ては盗塁で進塁、スクイズを決めてはホームに突っ込む、今でも十分通 用する戦法でチャンピオンの名を欲しいままにした。そんな「朝日」チームの人気は日系人はもちろん、地元バンクーバーっ子もとりこにした。
 「日本人だけでなくて、白人から応援してもらったからですね。とても良かったですよ。それに、朝日はフェアープレー、グッドスポーツマンプレーでいきましたからね。それを白人に認められてとても応援してもらいました」とはスガ氏。時は1930年代、排日ムードは色濃く、世界恐慌がバンクーバーをも飲み込み、世相は彼らにとって決して明るいわけではなかったが、それでもカナダ社会に受け入れてもらおうという日系1世のフェアプレーの精神が白球を追う2世達の野球に対するフェアプレーに反映されていた。そういうプレーの数々が国籍を超えて野球ファンを魅了した。
★ヒーロー達
 朝日チームは1914年マツジロー・ミヤサキ氏を監督に若い日系2世を中心として作られたチームだった。その下には、アスレティックス、ビーバーズ、そして一番若い9才ぐらいから編成されたクローバーズ(別 名五軍)と呼ばれたチームが組織されていた。朝日(1軍)のユニフォームに袖を通したのは、1914年から1941年までの27年間で約70名。どの時代でも朝日は野球少年のあこがれだった。
 「1939年にルーキーとして朝日に入れてもらったんですよね。朝日のユニホームをもらった時はうれしくて寝られなかったですよ。その当時2世は朝日に入るのが夢だったですよね」とカミニシ氏。今でも朝日のユニホームは大事にとってあるという。往年の選手全てがあこがれの的であり、彼にとってのヒーローだった。「前からやっていたベテランのプレーヤーの人がよく教えてくれましたね。だから大変感謝してますよね」カミニシ氏は1939、40年と朝日でプレー、内野手として活躍した。
 1937、38年にピッチャーとして活躍したジミー・フクイ氏は「私はパウエルグラウンドでプレーしたのですが、コン・ジョーンズ・パークでプレーしていた朝日の試合をよく見に行きました。ロイ・ヤマムラ、ネギー・ニシハラ、ハービー・タナカ、ジョー・シシドなどが率いた朝日の大ファンでした。ベストチームでしたね」と振り返る。
 これらの選手と共にこの時代の名選手の1人に挙げられるのが、1塁手ジョー・フクイ、ジミー氏の兄である。スガ氏は「ジョー福井氏はとっても上手な1塁手でしたよ。私が記憶する限りでは、彼が一番上手だったように思います」と語る。
 キヨシ・スガ氏は1932-41年まで幹事、記録係として「朝日」チームのあれこれの世話をし、外からチームを見てきた。「活躍していたのは有名なロイ・ヤマムラ(内野手)、また、レジー・ヤスイはとっても上手なキャッチャーでした。ピッチャーでは、私の一番上の兄のタイ、彼は左利きでしたね。それからフランク・シライシ、マイク・マルノもやりましたね。彼らは15才から16才くらいからやりましてね。私が覚えているのはその人達ですね。それにエディ・キタガワ。あの時代は朝日の黄金時代。35、36年のチャンピオンシップをとった時は良かったですね」と選手の話を始めると誰も話が止まらない。
 これらの黄金期にベテラン選手と言われる先輩選手に混じって、朝日五軍(クローバー)から始め、若干17才で朝日を支えたピッチャーがいた。1928-34年に活躍したミッキー・マイカワである。彼の右腕が「朝日」の黄金期を支えたといっても過言ではない。
 そんな彼にとってのヒーローはロイ・ヤマムラであり、そして誰より彼が尊敬していたのがジョージ・タナカであった。1922-33年までピッチャーとして活躍していたジョージ・タナカは、「片手の投手」として知られていた。シーズン中に働いていた工場での事故で片手を失い、投げるのも捕球するのも右手だけだった。「聞いた話なんですが、片手を失った時もう野球ができないと思ったらしいです。でも、彼はプレーし続けた。とてもすばらしい投手でした。みんなと同じようにプレーをするのです」とマイカワ氏は彼とプレーできたことを誇りに思っているという。野球をやめてからも交流があった2人はある日ゴルフを楽しんでいた。「驚きましたね」と笑いながら、「ジョージが、ホールイン・ワンを出したんですよ。もちろん右手一本で」。経緯はこうである。タナカ氏の打ったボールは大きく弧 を描き、グリーンを囲む木に当たった。木に当たったボールは跳ね返りグリーンの上に、そしてそのままカップをめがけて転がり、吸い込まれるようにカップに落ちた。「笑い話だけどね、でも、彼はすごかったよ」マイカワ氏の声は懐かしそうだった。
★楽しく愉快な野球少年時代

 マイカワ氏にはもう一つ試合にまつわるちょっとした笑い話がある。
 ミッキー・マイカワ氏の話:「相手チームのランナーが1、2塁にいるんですよ。僕がピッチャーでした。1アウト。バッターは送り

左からコーエイ・ミツイ、ジョージ・シシド、ケイ・カミニシ、トミー・サワヤマ

バントをしてきました。ボールはライン際をコロコロと転がっていました。私はボールをとりに走りました。これが2アウトであれば迷わず1塁に送球するのですが、1アウトだったため3塁に投げようとしたのです」 投げるモーションに入り腕を上げたところで、一瞬マイカワ氏は戸惑ったという。それというのもランナーがまだ3塁まで全く到達しいなかったからだ。その一瞬の躊躇が命取りとなった。彼が投げたボールはすっぽ抜け3塁手は捕球できない。ボールは転々とグランドのフェンスに向かって転がった。「そこにたまたま穴があったんですよ。フェンスにね。ボールはそこにすっぽりと入ってしまって、結果 はスクイズしたバッターまでホームインして3失点。今でこそ笑い話ですけど、あのときはがっかりしましたよ」と笑う。それからそういった状況では走者の進塁は1つのみとルールが変更となった。
 少年時代、五軍からずっとマイカワ氏の球を受けてきたのは、1934-41年まで朝日でキャッチャーとして活躍したケン・クツカケ氏。「1軍に上手なキャッチャーがいたので、僕はなかなかあがれなかったんですよ」とはいうものの、彼は9才から五軍で野球を始め、1軍にあがっても大活躍している。「朝日クローバー・少年チーム。これで初めて朝日のユニホームをもらった。9才くらいかな」と写 真を指さしながら語る。「僕は3度の飯より野球が好きでね」と笑う。
 その当時の朝日のスケジュールといえば、今の高校野球顔負けである。
 マイカワ氏の話:「朝5時に起きてね、それから学校が始まるまで練習するんですよ。それから、学校。学校が終わると今度は日本語学校」そして週末には試合をする。
 スガ氏の話 「一番えらかった(つらかった)のは、みんな仕事していたし。特に30年代は不景気だったし。みんな仕事してご飯食べてすぐに試合でしたから、それがえらかったと思いますよ。(試合が)すんだあとみんなでお風呂にいくのがとても楽しかったですよ」 「3度の飯より野球が好き」でなくてはできないことである。
★日本人と野球
 アメリカ人によって日本に野球が伝えられたのは1870年代初期。1878年アメリカ留学経験のあるヒラオカ・ヒロシ氏が鉄道労働者を集めて結成した野球チームが日本での野球チーム第1号とされている。以来、日本人は野球というスポーツに熱狂してきた。
 長野萬蔵がカナダに日本人として最初の一歩を記したのが1878年、朝日野球チームの前進、「日本」野球倶楽部が設立されたのが1910年頃、そして「朝日」の結成が1914年。アメリカから輸入されたベースボールが日本で花開き、再び海を渡りカナダ最西端の地バンクーバーに逆輸入され、人々が「朝日」のプレーに熱狂したとしても何ら不思議ではない。ときは1930年代、折しもメジャーリーグではベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジョー・ジマジオなどのスター選手が大活躍。野球の本場北米にいて野球狂の血が騒がないわけがない。
  1934年メジャーのスーパースターが海を渡り日本選抜チームと遠征試合をした。その時の面 々といえば、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、チャーリー・ゲリンジャー、ジミー・フォックスと錚々たるもの。ドリームチームである。それを迎え撃ったのが当時若干18才の沢村栄治投手であった。同年、これを機に日本初のプロ野球団読売巨人軍(現東京読売巨人軍)が設立される。
 翌35年5月、この創設されたばかりの日本プロ野球チームがバンクーバーに遠征にやってきた。それを迎えるはもちろんバンクーバーの誇り「朝日」チーム。この時の遠征メンバーには、ロシアンロケットの異名をとったロシア出身の投手ヴィクター・スタルヒン、今や伝説として語り継がれる日本球界屈指の豪腕投手沢村栄治、読売巨人軍初代主将のちの巨人黄金時代を築いた水原茂と野球ファンにとっては夢のようなメンバーだった。
マイカワ氏の話:「沢村投手は戦死したんだったね。球がずいぶん速かった。彼ならいつでもメジャーで活躍できただろうね」 クツカケ氏の話:「東京ジャイアンツ。すごかったね。沢村、田部、水原。サイン持ってますよ」 スガ氏の話:「35年。東京ジャイアンツ。あの時は2人ピッチャーがいましたね。沢村、ロシアの投手。2人ともとても上手でした。球がとても速くて。やはり強かったですよ。玄人・素人とがするようでしたよね。打つのも強いし、守るのも強かったですよ。あれはみんなから応援してもらって良かったですよ。コン・ジョーンズパークは広かったですからね。5000人はいましたよ」 カミニシ氏の話:「ジャイアンツがきた時は見に行きましたよ。いろいろサインをもらいましたよ。15、6だったと思います」
★2003年ベースボールシーズン開幕
 2003年春、今年もベースボールシーズンが開幕した。今年の話題はなんといっても巨人からヤンキースに移籍した松井秀喜選手。これまでメジャーで活躍してきたイチロー選手や野茂投手とは違った新しいタイプの日本人初の大リーグスラッガーとして注目を浴びている。
 2002年5月に時はさかのぼる。トロントスカイドームで行なわれたブルージェーズとシアトルマリナーズとの一戦。試合開始前にあるセレモニーが行なわれた。Mブルージェーズが「朝日」チームを招待したのだ。マイカワ氏とクツカケ氏は「朝日」の帽子を胸に抱き、オーカナダに聞き入った。
 今年、1920年から30年代にかけてカナダ人としてそして日本人として誇りを持って戦ってきた「朝日」の選手が現在の日本人メジャーリーガーに注目していないわけはない。
マイカワ氏:「私が記憶していたところでは2002年シーズンは17人の日本人メジャーリーガーがいたでしょう。みんなとてもいい選手ですね。そして、今年はもう一人すごいのが来るでしょう。見るのが楽しみですよ」マイカワ氏は去年の式典でイチロー選手に会っている。「彼はいつでもいいプレーをしますね。これからも楽しみです」
クツカケ氏:「イチロー選手には去年会いました。今年はヤンキースに松井選手だね」
スガ氏:「野球は見に行きますよ。モントリオールは特にね。大家投手がいますね。ベースボールがとても好きですからね。日本人の活躍をみて、今年はニューヨークヤンキーの松井選手をトロントに見に行きたいと思っていますよ。トロントで去年イチロー選手をみましたよ。5月ですかね。ブルージェーズが朝日のチームに敬意を示してジャパンナイトとして表彰しましたでしょ。佐々木投手も投げましたね。よかったですよ」 カミニシ氏:「日本人の活躍はイチローとか興味を持って見てますよ」
フクイ氏「トロント・マリナーズ戦など見ますよ。イチローはすごい人気ですね。今年はもう一人、ヤンキースに(日本から)ホームランバッターが入ったでしょ。楽しみですね」
★Canadian Baseball Hall of Fame  
「Astonished」とマイカワ氏は表現した。2003年2月24日「朝日」チームにうれしいニュースが飛び込んできた。Canadian Baseball Hall of Fame(カナダ野球の殿堂)が「朝日」チームの殿堂入りを発表したのだ。
 「大変光栄な事ですよね。朝日が1914年から41年まであったでしょ。朝日のユニホームを着てから、スマートなベースボールをしたおかげだと思いますね」とカミニシ氏。「ほんとに光栄なことですね」とクツカケ氏も短くその喜びを語った。この栄誉ある賞のへの朝日チームの喜びはスガ氏の言葉が代弁している。「とても、とても、光栄です。今年に選ばれて、びっくりしました。ほんとに光栄ですよ。朝日クラブだけではなく、カナダの日系人のためにも良かったと思いますよ。日系人のほんとのプライドですね。ほんと光栄ですよ。一番、喜ばしいですよ」
 ただ残念なことは、「亡くなった人が多い事ですね。創設以来の選手マトバさんも100才くらいで近年に亡くなって、エディ・キタガワも100才くらいで亡くなりました。その人達がいないのが残念です。僕の兄も1月に亡くなりましたからね。僕らよりあの人達ががんばっていましたからね、一番残念なのはそれですね。昔のプレーヤーが亡くなってしまいましたからね。あの人達がいたらいいなっておもいますよね。そんな事思うと泣けますよね。名誉選手でしたからね」とその思いを語る。
 1914年から野球を愛し、ひたすら野球に没頭したバンクーバー生まれの日本人チーム「朝日」は1941年12月の太平洋戦争勃発のためにカナダ政府がとった日系人排斥政策のため、1941年でその輝かしい幕を閉じる。
 1992年足立澄江(パット・アダチ)氏が編纂した「朝日」という本の中で、カズ・スガ氏の追想の手紙の中に次のような一文がある。『朝日球団のノスタルジックな記憶は今や次第に薄れつつある。だが、日系野球史として朝日軍の名は何時までも残したいものである』このカナダ野球殿堂入りで彼の願いが叶ったものとなった。彼らの栄光は未来永劫カナダの野球史の中で語り継がれ、これから先も「朝日」が光り輝いていた日々の躍動が人々の記憶に生き生きと描かれていくことだろう。
 野球殿堂の表彰式は6月28日オンタリオ州セントメリーズにあるCanadian Baseball Hall of Fame & Museumで行なわれる。
Sleeping Tigers:The Asahi Baseball story
 「朝日」を描いたドキュメンタリー映画 “Sleeping Tigers:The Asahi Baseball story”(ジェリー・オズボーン監督)の試写会が4月13日日系文化センターで行なわれる。朝日の元メンバーも参加する予定になっている。
とき:4月13日7:30pm
ところ:日系文化センター 6688 Southoaks Crescent, Burnaby ) インフォ:TEL:604-777-7000                                           (取材 三島直美)