2003年2月 第9号 掲載


平和のために、未来のために
バンクーバー在住在外被爆者 キヌコ・ラスキーさんインタビュー

    2002年12月5日大阪高裁は、韓国在住被爆者郭貴勲(カク・キフン)さんが起こした在外被爆者に対する「被爆者援護法」に基づく健康管理手当の支給を求める裁判で、一審での大阪地裁の原告の訴えを全面 的に認めた判決を支持し、国と大阪府の控訴を棄却した。この判決に坂口力厚生労働大臣は上告しないことを12月18日に発表、これにより在外被爆者に対する補償問題が大きく一歩前進した。 このことを受けて、カナダに在住する被爆者へも保証の手が差し伸べられることとなった。現在カナダに在住する被爆者は23人とされている。そこで今回、バンクーバー在住で1956年にいったん日本に帰国し在カナダ被爆者1号となったキヌコ・ラスキーさん(74才)に今回の判決についてや被爆、渡加、在外被爆者支援運動などに関して話を聞いた。
今回の判決について
 日本でこのような判決が出て、在外被爆者補償に再びスポットライトがあたることについて、「この訴訟に関しては私自身はあまり興味がないんですよ。実際今更お金をもらってもどうしようもないし、親が帰ってくるわけでもないんですからね」と笑う。しかし、カナダにいる他の被爆者達のために中心になって動いている。今回新聞に情報を載せたことで各地から問い合わせもあった。「大事なことは被爆手帳を持っていること」とキヌコさんは強調する。もし持っていないのであれば、手続きに関する資料があるので連絡してほしいとも言った。
 実際日本でのこの動きを聞いたのは、判決が出たあと今でも連絡を取り合っている広島市原水協(原水爆禁止日本協議会)代表理事長の中本康雄先生からの連絡を受けたからである。「韓国、アメリカ、ブラジルなどの在外被爆者達が運動しているがカナダではどうなのか」との問い合わせで初めてこのような動きがあることを知る。しかし彼女がこれまでこの問題に無関心でいたわけでは決してない。
被爆  1945年8月6日午前8時15分1個の原子爆弾が広島市上空で爆発した。当時16才でその年の4月から広島逓信病院で見習い看護婦として働いていたキヌコさんは、その日も病院に出勤。診療の準備に追われる中、爆心から1.4キロの病院内で被爆した。「その時の衝撃は身体が鞠のように12回ぐらいも跳ばされたから、12回も爆弾にあったと思ったのよ」と被爆瞬間の様子を語る。
 その後他の看護婦に付いて逃げようとしたが、顔が腫れ上がり前が見えなくなった。その上、右のまなこには衝撃のせいでひびが入っていた。「やっとの思いで目を開けると防火用水槽の中は人だかりでね」と悲惨な状況を思い出し、その時の人達の顔が今でもたまに夢に出てくるという。キヌコさんはさらに辺りを徘徊し続け、水道管の破裂で水がスプリンクラーのように出ている場所を見つけて水を浴びる。しかしそこで意識がなくなったという。「気が付いたら死んだものとみなされて死体を焼却する死体置き場にいたんですよ」と苦笑い。焼かれる寸前に気が付いて死体を押しのけながらそこから這い出した。それが原爆投下から3日後のことだった。
 やっとの思いで這って病院まで行くと彼女に気づいた医師が抱きかかえて手術室まで連れて行き、「もし助かったらこのままでは痕がひどくなるから」とすぐに麻酔なしで顔や肩を太い針で40針も縫った。左の頬は骨が現われ、口の右側は耳のそばまで割けている重傷だった。その時は何度も「殺してくれ」と叫んだという。「今ではあのとき先生が縫ってくれていなかったらどうなっていたかと感謝しています」と微笑む。
 しかしその後も被爆の後遺症に悩まされる。終戦後1年以上も経ってやっと歩けるようになり「病院に帰ってきたら」という知り合いの言葉もあって、広島の病院に戻りはしたものの、つらいことばかりで何度も死のうとした。整形手術も8回を数えた。それでも生きてこの世に留まった。
カナダへ
 いつまでも母親の世話になっていては母親が大変だろうからと独立。広島駅近くにレストランを経営していた。そんなキヌコさんがデイビッド・ラスキーさんに出会ったのは1951年。2年後に結婚、長女を出産し、54年に夫デイビッドさんの故郷カナダへ渡る。
 デイビッドさんの実家のあるウィニペグに滞在した後、バンクーバーに移住。しばらく病院で働いた後、ここには1世の老人が多いというのを聞いて老人ホームのようなものがあればと思いつき、資金を工面 し老人ホームを始めた。
 「あんなに死にたい死にたいと思っていたのに、被爆した当初神様に助けてくださいと祈ったのが聞かれたおかげか、まだ生きているんですよ」と笑って、「でもせっかく生きているんだからと今まで人のためにできることなら何でもしようと生きてきたんです」と語る。
 老人ホーム経営を14年間続けた後、体調を崩して引退。今でも身体はあちらこちらが痛むという。それでも話す時の表情は穏やかでいつもにこやか。「今は趣味でステンドグラスを楽しんでいます」と言うように、家には至る所に自作のステンドグラスがはめ込まれている。現在は、ステンドグラスを通 した柔らかな日が差し込むこの家でデイビッドさんと2人で穏やかな日々を送っている。
被爆者として
  1956年日本に一時帰国。被爆者手帳の登録を行いカナダ人被爆者代1号となった。それからはカナダの被爆者達の代表的存在となる。何度も死のうとした時、「自分が不幸で人を恨んでばかりいては平和は来ない」と思うようになった。自分がもっと強くならなければとの気持ちが強くなったという。日本では精神的なケアをしてくれる機関もあるが、カナダにいてはそれもない。「よく医者から、ストレスがたまったら病気になるから裏庭に出て泣きなさいと言われました」とカナダに来てからの苦労を話す。でも、生きていくからには助け合わなくてはと、80年代から積極的に公の場で被爆体験を語るようになった。
  1982年エドワード・ケネディ上院議員らに招かれ、米国議会で被爆者として核廃絶を訴えた。83年カナダ被爆者協会を設立。1985年バンクーバー在住の清水医師らの協力を得て、バンクーバーに広島の医師団を招待。カナダ医師会の免許を1日だけ交付してもらいセント・ジョセフ病院で診察を行なった。1987年には広島平和公園の「平和の灯」をバンクーバーのシーフォース・パークに灯した。しかしカナダ被爆者協会はのちに立ち消えとなっている
 その後も機会あるごとに学校や教会などで被爆体験を語っている。「こういう話は人が聞きたがらないので、聞いてください、見てくださいじゃ始まらない。なるべく人の口から人の口に伝わるようにと思って」と招待されると行って話す。「本当は話すのがいやなんです」と本音が覗く。しかし「なるべくチャンスがあれば話したいと思っています。今からの子供達に同じ目にはあってほしくないのです」と、自分が体験したことを伝えることで、子供達の未来に平和がくることを願って今もあの被爆の悲惨さを語り継ぐ。
これから  
海を渡って被爆体験を語り継ぐキヌコさんの願いはただ一つ、「子供達に幸せになったほしい」ということ。「二度と戦争はしてほしくないし、今からの子供達が幸せになってほしいと思う」とただひたすら平和を願っている。
 さらに、在外被爆者支援が再び日本で脚光を浴びていることを受け、高齢者が多く渡日して在外被爆者支援を申請することが難しくなっているため、これを考慮した支援方法の改定を訴えていきたいとし、また、長女が自分と同じような身体の痛みを訴えることがあることなどを懸念して、カナダ国内では診察できない被爆症状に対しての被爆者2世の保護も訴えていきたいと語った。
日本国内の在外被爆者に対する動き
 今回の一連の在外被爆者支援の動きは、1998年に郭貴勲さんが被爆者健康管理手当の支給が自国に帰国するという理由で打ち切られるのはおかしいとして、「被爆者援護法」が海外在住者にも適用されることを求めて、大阪地方裁判所に訴えたことから始まった。国と大阪府は1974年の旧厚生省通 達を基に在外被爆者を失権扱いとして全面抗争。2001年6月大阪地裁は、原告の訴えを全面 的に認め、海外居住者を「被爆者援護法」から排除する理由はどこにもないとして、国の主張を退けた。
 審判決に対して国と大阪府は大阪高等裁判所に控訴。一方で8月から厚労省が検討会を開き同年12月には在外被爆者の健康手帳交付、治療、手当支給などを盛り込んだ「在外被爆者支援事業」を発表している。
 こうした動きの中、2002年12月5日大阪高裁は1審での判決を支持、原告の訴えを認め、国と大阪府の控訴を棄却。これにより在外被爆者に対する「被害者援護法」の適用に一つの道筋ができた。同年12月18日坂口力厚労相は、この判決に対して国が上告しないことを表明、今後在外被爆者にも手当てを支給することを明らかにした。
今後の課題
 厚労省が在外被爆者にも健康管理手当、医療特別手当支給を行なうと発表したからといって問題が全て解決したわけではない。「被爆者援護法」に基づく場合、原爆者健康手帳の交付や手当支給の手続きは日本国内でしなければならない。在外者の場合一度渡日する必要がある。しかしながら、現在、韓国、北南米を中心に在住する約5000人の在外被爆者は高齢化が進んでおり、渡日が困難な者も少なくない。しかも原爆手帳は3年または5年ごとに更新しなければならず、そのたびに渡日しなくてはならない。
 さらに今年度国が5億1700万円を計上し、2002年6月から適用された「在外被爆者支援事業」も、渡日が前提となっているため利用率はかなり低い。にもかかわらず厚労省は03年度予算概算要求でも同額を組み入れている。
 02年12月18日の坂口厚労省相の記者会見でも、今後援護法の改正や新事業の見直しといったことは現在のところ考えていないとの見解を示している。在外被爆者および支援団体からは、これらのことが考慮され法改正が行なわれない限り本当の勝利を勝ち取ったことにはならないとの声も多い。
 今回のインタビューの中で、キヌコさんが何度も口にしていた言葉は、「未来の子供達のために」である。将来自分が経験したようなことが二度と起きてほしくないという平和への熱い願いが広島訛りの穏やかな語り口のその言葉の一つ一つに込められ、これまで起こった全てを深く包み込むような優しい眼差しはいつも未来の子供達へと向けられている。被爆という筆舌しがたい体験を生き抜いてきた人の言葉だからこそ、その平和の願いはいっそう色濃く人々の胸に刻み込まれる。
 在外被爆者−広島、長崎で被爆し、戦後に日本を離れ、海外で暮らしている人。厚労省などは、韓国に約2200人、北朝鮮に約900人、南米や北米に約1300人など、世界中に約5000人いると推計している。
 被爆者援護法−被爆者医療法と被爆者特別措置法(原爆二法)に代わり、被爆50年を前にした94年12月に制定。広島、長崎の原爆被爆者と認定されれば、被爆者手帳を交付され、医療費全額支給のほか、症状などに応じ、医療特別 手当や健康管理手当などが支払われる。また、一定の条件を満たす被爆者に特別葬祭給付金を支給することが新たに定められた。
 在外被爆者支援事業−在外被爆者を支援する目的で国が予算を計上し、被爆者健康手帳の取得や治療のための渡航費助成を柱とする事業。2002年6月から適用されている。          (取材 三島直美)