2003年1月 第5号 掲載
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エベレスト遠征のスタッフとして活躍した田近真知子さん(中央)、ホテルのオーナーの宮原巍さん(右)、登山家の貫田宗男さん(左)とともに |
田近真知子(たぢかまちこ)さん。日本の旅行会社で添乗員から手配業まで様々な業種をこなした経験を持つ。添乗員の仕事では世界中を回った。転職後の旅行会社で立ち上げから間もないバンクーバー支店を任されて、二年間の激務の後に辞職。その後他の旅行代理店から声がかかったが、人々への気遣いに疲れ、「人のいないところに行きたい」という思いを募らせる。そこから一路ネパールへと飛び、一九九〇年から九八年までの八年間、エベレストを望む三九〇〇メートルの高地に建てられた「ホテル・エベレストビュー」でただ一人の日本人としてマネージャーを務めた。
―エベレストのホテルで働くことになったきっかけは
朝日新聞の衛星版を読んでいたら、日本人らしき方が山々を背にした写真があって、それがネパール高地のホテルのオーナーであると紹介されていましてね。「これは人がいなさそうだ」と思い、すぐに面
識のあるネパール専門のツアー会社の方に「ここに住めるかな?」と連絡しました。そしてそのツアー会社の方がわたしをホテルのオーナーに紹介してくれることになりました。以前に一度だけネパールを旅行したことはあったんですが、食事をしたらお腹を壊すなど良くない印象が多かったですね。でも「とにかく乗りなさい」と誘われたマウンテン・フライトでは、雲を抜けたとたんに一面
に山々が広がっていて、「こういう景色も世の中にあるんだ」と思いました。でもネパールのことは先の記事を見るまで忘れていたんです。
―ネパールにある目的のホテルを最初に訪れたときのことを聞かせてください カトマンズに着いてホテルのオーナーの宮原巍(みやはらたかし)さんに会いました。「君に務まるかな」と言われ、その意味もよくわからずにいました。そこからホテルへの登山口であるルクラまで飛行機で行くのですが、天候の良くなるのを待って、やっと十三日目に飛び立てました。ルクラに着いてからは、二泊三日かけて歩いてホテルに向かいました。いやというほどの坂道ばかりでしたね。ホテルは閉鎖された期間が長くあり、再建築のための工事中。一月の夜で外はマイナス二十五度。暖房の設備が未完成なため、持たされた湯たんぽが唯一の暖をとる道具でした。夜中にベランダに出て空を仰いでみると、ものすごい満天の星空なんですよ。これに魅了されましてね。そして、翌日下山してホテルのオーナーの宮原さんに「(山のホテルに)いられそうです」と言いました。そこからバンクーバーに戻って、翌月には再びネパールに入り、ホテルのマネージャーとしての勤務を始めました。
ホテル・マネージャーとしての日々
従業員はすべて現地ネパール人の男性。ネパール語を話す彼らとやりとりをするために田近さんは絵を描いた。「絵でも通
じるものなんですよね」しばらくすると、ネパール流の仕事のやり方に腹の立つことも多くなった。「とにかくネパールの人は、少し手が空いたから、と他の仕事を手伝うようなことはしませんし、言われたことはその通
りにしかしません。仕事のペースは『ビスターレ(ゆっくり―あせることはない)』とマイペースですし」女性の地位
の低いネパール社会にあって、女性マネージャーにあれこれと指示されることに、スタッフのプライドが許さないところもあったようだ。仕事を始めて一年ほどした折り、突然スタッフがストライキを起こして、「仕事をしない、食事も作らない」と言い出した。目の前の客をほったらかすわけにはいかない田近さんは、自らキッチンに立ち、十数人の食事作りをこなした。またあるときはホテルで病人が出たため、定員オーバーとはわかっていたが、飛行機のパイロットに病人を搭乗させてくれるよう直接依頼した。そしてパイロットからは承諾を得たにもかかわらず、ホテルの従業員スタッフは無線で管制官に「飛び立った機体は重量
オーバーだが、田近が乗せた」と知らせるなどのいやがらせを受けたこともあった。
そうしたなかで田近さんは、「まずはお茶をいっぱい、仕事はそれから」といったネパール時間、ネパール流にも合わせながら、スタッフのマネージメントを行ってきた。しかし宿泊者の八割を占める日本人客に合わせ、トレッキングの帰路ホテルに泊まるお客様には日本食を提供したり、一人一人の体調に気を配るなどの日本人ならではの心遣いは忘れなかった。
―高山病になるお客さんは多いのですか?
程度の差はありますが、ほとんどの方になんらかの症状が出てきますね。そのため夜は酸素ボンベを片手に、部屋から部屋へと渡り歩くことになります。酸素ボンベのほかにも血液中の酸素飽和度を測る機械やプレッシャーチェンバーは常時ホテルに装備しています。高山病の症状には重度になると記憶障害もあるんですよ。それで、病人の方を病院へ送るためにヘリコプターをチャーターした場合でも、その方の回復後に「どうしてヘリを呼んだのだ」と言われることもあります。ネパールの高地にいる唯一の日本人である田近さんには、ホテルの宿泊客であるなしにかかわらず、山での病気や事故で助けを求める連絡が飛び込む。そのたびに、田近さんは緊急事態発生の連絡を取る、ヘリコプターの手配を行う、酸素を持って現場にかけつける、など現場の要請に即対応して行動する。いくつもの生死の際にも直面
してきた。緊急事態のなかで、きびきびと行動する田近さんの姿をたびたび見るうちに、ネパールの救助隊である軍の人々も彼女に一目置くようになった。そこから軍の人たちとのつながりが生まれ、仕事も運びやすくなってきたという。
―思い出深い出来事はどんなことですか?
一つはエベレストの遠征隊のベースキャンプマネージャーとして二ヶ月間山に入ったことです。毎日無線連絡や食事の支度などで、休む間がなかったですね。そのとき一度、雪崩がありまして、テントの中に積んであった缶
詰類がダーッと自分のほうに倒れてきました。外では飛ばされたテントがいくつもありました。もうひとつは一九九五年十一月にヒマラヤ山麓でのこの時期にはまれな記録的な大量
積雪による雪崩での大遭難に向き合ったことです。そのときネパールの全土では六十三名もの死者が出て、積雪に閉じ込められた五五〇名余りがヘリコプターで救助されるという大惨事でした。そのとき明治大学の山岳部OBの方たちがゴーキョからの帰り道に雪崩に巻き込まれました。彼らが無線でやり取りをしているところを見ていた別
の一行の方が雪に埋まった彼らを掘り起こして無線機を取り出し、いち早くこちらに連絡をよこしてくれました。トレッキングに参加した十三名全員が死亡したとの知らせに何事かと信じられない思いでした。
―ほかにも危険な思いをされたことはありますか?
軽飛行機に乗っているときに気流に巻き込まれて、かなりの勢いで降下したことがありました。すごい重力に押しつぶされそうななか、積んである野菜が飛んでくるわパイロットが飲んでいた水が飛んでくるわで、ひじょうに怖かったですね。
―ネパールの高地という人里離れた場所でどんな思いで生活をされていましたか?
物の何もない環境でも不自由とは思わなかったですね。仕事に関しては、オーナーが「多くの人にこのヒマラヤの雄大な景色を見てもらいたい」とあのような高地にホテルを建てたというすばらしい気持ちに対してお手伝いをしたいと思っていました。
お嬢さんの就学にあたり、ホテルを辞め、バンクーバーに暮らす田近さんだが、今も田近さんのうわさを聞いて、彼女を頼りにするメディアや旅行者などから声がかかっては、ネパールに赴き、現地のコーディネータとして活躍している。昨年は一五〇日海外に行っていたという。行動力あふれるネパールの世話役、田近さんにかかる期待は大きい。
(取材 平野香利)